2011/01
宣教師、医者 ヘボン君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 1]


明治学院ヘボン胸像


ヘボンの生涯
 第1期  修業の時代(〜25才)
 第2期 東洋伝道の時代(26〜30才)
 第3期 ニューヨークで病院開業の時代
            (31〜43才)
 第4期 日本伝道の時代(44〜77才)
 第5期 帰米・晩年(78〜96才)

 ヘボンは、本来は眼科医だが内科、外科手術など何でもこなし、その評判を聞いて江戸からも、難病患者が神奈川までやってきたと云われる。漁師たちも目薬「精リ水」をもらって、その効能を口伝えにして評判を広げた。

 横浜市中区の合同庁舎前にヘボン博士邸跡の碑がある。説明板に「開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書の翻訳、和英辞典の編纂、医術の普及などがそれである」と書かれている。

 横浜の外国人居留地では自ら設計して宣教師館、施療所兼礼拝堂、病院、馬小屋などを建て、医学を学びたい者を受け入れ、ヘボン塾を開いて英語・数学・化学などを教えた。幕府は大村益次郎はじめ9名の委託生をヘボン塾へ派遣した。

 その後、ヘボン塾で学んだ人達には、林董(外交官、外務大臣・逓信大臣)、高橋是清(日銀総裁、大蔵大臣・総理大臣)、三宅秀(東京帝国大学医学部長)、高松凌雲(箱舘病院長、民間診療医)、益田孝(三井物産創業者)などがいる。

 一方明治学院の卒業生には島崎藤村、岩野泡鳴など作家・文学者、賀川豊彦など社会運動家・牧師・神学者やジャーナリスト、芸能人らがいる。
 明治時代にキリスト教の洗礼を受けた文学者には、徳富蘆花、北村透谷、国木田独歩、木下尚江、正宗白鳥らがいる。

 いずれもヘボンの功績を受けた、それぞれ伝記物語のできるほどの有名人ばかりである。
  
 ヘボンと聞けばヘボン式ローマ字を思い出す人が多いと思う。正式な名前はジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn 1815−1911)で、医師、宣教師、教育者の顔を持つ。自ら“平文”と署名し、日本ではヘボンで通用している。ニューヨークで小さな医院からスタートした評判の良い医者で、大病院にまで発展するとその病院や邸宅を売却して、宣教医として幕末の日本にやってくる。
 ヘボンが来日したのは日米通商条約が締結されて横浜開港となる1859年。まだ横浜の外国人居留地はできておらず、神奈川宿の居留地ではアメリカ公使館が本覚寺、イギリス公使館が浄瀧寺、フランス領事館が慶運寺にあり、ヘボンは成仏寺本堂を住居とした。成仏寺の前には「史跡外国宣教師宿舎跡」の碑がある。

医療活動
 宣教医として来日したヘボンだが、当時はまだ切支丹禁制であり、宣教師としての活動は在留外国人らへの礼拝程度であった。切支丹禁制が廃止されたのは1873年(明治6年)である。そこでヘボンは専ら医療活動に従事した。成仏寺時代から横浜居留地での診療・病院で18年間活躍し、健康を害して64才で医師としての施療活動を終わらせている。
 彼の診療は無料診療で、費用はアメリカ公使館やアメリカ長老教会からの寄付による他は、ニューヨーク時代の病院・邸宅の売却費の資金より支弁した。患者は1日30〜40人、多い日は60〜70人で、年間6000人から1万人の診察を続けており、素晴らしい社会奉仕活動である。この間、医学生のクラスを作り、週2〜3日教えていた。
 医療活動の傍ら将来の布教活動のための準備として、第1は日本語を覚えること、第2は聖書を翻訳するため、更には他の宣教師のために和英辞書を作成すること、第3は聖書を翻訳することを自らに課した。最初に覚えた日本語は「アブナイ」「コラ」「シカタガナイ」で、その他、日本語を覚えるために「コレナンデスカ」だったと書いている。

和英語林集成
 ヘボンは神奈川成仏寺時代から和英辞書の制作に努めた。これに協力したのが岸田吟香で、7年かけて辞書原稿を作成した。岸田吟香は目を患い、ヘボンの医療活動によって快癒した一人である。
 印刷は上海の活版印刷所で行った。ここには漢字とアルファベットはあるが、“ひらがな”“カタカナ”の活字がない。そこで活字の製造からはじめて版組み、印刷に半年以上を要するうちに、最初は予定していなかった英和辞書の原稿もでき上がってきた。1867年に完成した第1版は和英20,772語(555ページ)、英和10,030語(133ページ)で2000部作成した。
 しかし宣教師派遣元の米国長老派教会は、辞書作成は個人的活動として費用を出さなかったので、ヘボンは横浜で医師・病院経営と丸屋商店を営む早矢仕有的(はやしゆうてき)に版権を売却した。
 丸屋商店は洋書や医薬品・医療器具を輸入販売しており、日本橋に丸善を開業した。第3版は1886年に丸善より刊行されている。改訂増補和英語林集成は、和英35,618語(770ページ)、英和15,697語(192ページ)で、予約販売により18,000部を作成した。

ヘボン式ローマ字
 ローマ字はポルトガル人、オランダ人などが日本語を表記するのに早くから使われていたが、各種まちまちであった。一例を示し、ヘボン式と比較してみる。
        カ キ ク ケ コ   シ  ツ  チ ジ フ
 ポルトガル流  ca  qi  cu  qe  co   xi  tcu  chi  ji  
 オランダ流    ka  ki  koe ke  ko   si  tsoe tsi      fu
 ヘボン式   ka  ki  ku  ke  ko  shi  tsu  chi  ji  fu

 明治維新後、欧米の言語を学んだ学者たちからローマ字運動が起った。物理学者の田中館愛橘や田丸卓郎たちは日本式ローマ字を考案し、国語をローマ字にする運動、ローマ字国字論を展開した。これに対してヘボンは、ローマ字はあくまで辞書などに使用する補助的な文字と位置付け、日本の古典や文化を大事にする立場からローマ字運動には反対した。

明治学院の創設
 米国・英国・オランダなどの外国人宣教師たちにより、ヘボン塾のような英語学校や神学校が多く創設された。宣教師の伝道活動も、それぞれの流派により教会が異なる活動をしていた。これらの学校を統合して明治20年(1887)白金台に設立されたのが明治学院である。
 ヘボン塾─→築地大学校─→東京一致英和学校┐
 ブラウン塾────┬──→東京一致神学校─┼→明治学院
 フルベッキ塾───┘   神田英和予備校 ┘

 ヘボンは初代総理に推されたが、その当時は聖書翻訳に集中していたのでこの職を辞退した。1888年に新約聖書・旧約聖書の翻訳事業が完成し、1889年に74歳で明治学院初代総理に就任した。ヘボンは丸善に版権を売却した代金を明治学院へ寄付してヘボン館(学生寄宿舎)を建設した。明治学院にヘボンの胸像がある。

聖書の翻訳
 ヘボンが宣教師活動の大きな目標としていたのが新約聖書と旧約聖書の翻訳であった。在日宣教師で翻訳チームを作り、1880年に新約聖書を完成した。1882年からは旧約聖書の翻訳チームで作業をはじめ、1887年に翻訳を完了した。ヘボン72才であった。
 ヘボンは教会の牧師として直接布教活動はしていないようだが、宣教師会議の議長を務め、横浜に指路教会を設立するなど布教活動の基盤整備に係る仕事を推進している。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)





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